いつかは何かになるために。

中途半端な自分が居直るためのブログ

終わりきれず、始まりもせず

ブログを始めて1年が経つ。この辺りで総括して幕を閉じよう。

 

去年の夏、意気揚々と上京してきたにもかかわらず、知らぬ間に立ち現れていた漠たる不安から逃れるために始めたのがこのブログだった。文章を書くことは好きだし、それを発信してみることで何か変わるものがあるかもしれないとの思いがあった。

しかしながら、これといって目を引くコンテンツを持ち合わせていなかったこともあり、とりあえず自分の考えを書き連ねていた。こんなこと発信するに足らないとの思いから目を逸らし、自分の書きたいことを書くブログだから、と言い訳しながら続けていたら、休み休みではあるものの1年も続いてしまった。よくもまあ、そんなにナルシスティックに自分の考えに向き合い続けられるものだと、我ながら少し呆れる。

 

まあでも流石にネタ切れに近い。その瞬間に言葉にしていることが過去の文章の反復に過ぎないように感じて、萎えてそのまま消してしまった記事の方が多い。二時間くらいあれこれ悩んで、結局何も書かずに寝た夜には何をしていたと自己嫌悪に駆られた。無理に書くことをひねり出そうとしている時点で手段が目的化してしまっているだろう。オワコンである。

あるいは肯定的に、自らの思考を他者に臆面もなくさらす露悪的な趣味からの卒業と呼んでもいい。書きたいことが見つからないのは、書かなくてもまあやっていけるようになったのだろう。思考が反復してしまっているような感覚は、きっと錯覚ではなく事実で、解決を目指すにせよ何か異なるアプローチをとるべきタイミングなのだろう。

 

そもそもかつて自分が言葉にしたモノクロームな日常という感覚を、今の自分はほとんど持ち合わせていない。かと言って、何かが動き出したという感覚は全くない。あれから月日は流れ、と物語が展開し始めることはない。それが自然だと思い直した。諦観にすぎないかもしれないが成熟だと信じたい。

それまでいた世界があまりにも単線的過ぎたのだ。今の自分はほとんど自明に来年の自分に、成長したよりよい自分に繋がるのであり、その指標もシンプルなものだったと言えよう。多少のスランプこそあれ、概ね一つの道を歩み続けているとの感覚があった。そこから一挙に視界が開け、人はあまりにもいろんな方向に歩んでいることに気づいた。より正確には、多くの人がいることを自覚はしたが、それぞれがどこに向かって歩いているのか、それは自分自身の志向と一致するのか判別できなかった。

何をやっても、何かに繋がっているような感覚が抱けなかったからこそ、停止してしまった時間のように感じて日々を過ごしていたのだろう。結局のところ、この時自分はまた何か一つ道を決めて歩き始めるものだと考えていた。

 

生きるとはそれではなくて(大きく出すぎだとも思うが)、偶然的、刹那的に発生する事柄の総体と捉えた方が、もしかしたら自然なのかもしれない。よく計画されたキャリアプランとそれを辿るような人生を決して否定はしない。それができる人々の計画力と実効力、およびその意志は尊敬に値するだろうと率直に思う。

一方で、時に今までの自分らしさから外れたり、1週間前と真逆の判断をしてみたり、なんとなく始めたに過ぎないことを続けてみたり、それなりの愛着を持っていたことにふと見切りをつけてやめてみたり。とんでもないことをするにはまだブレーキをかけすぎてしまうけど多少行動の幅を広げた今の人生は、かつてほど単純ではなく悪くない。

一体感もなく刹那的で泡のようにはじけゆく日々をそのままに、成長の糧となるような努力を放棄しているように見える自分が、本当にこれでいいのかと時に疑わしくもなる。けれども、人生の場面一つ一つに意味があるのもあまりに虚構的で、ましてやそれらを求めたいのだろうか。自ら書いた筋書きに沿うよう生きても、他ならぬこの自分は今一つ楽しめないように感じる。物語的に構築された人生は客観的には美しくとも、人生の予定調和を目指すという態度にどれほどの魅力を感じられるのだろう。

 

もちろん今の生き方は無軌道とは程遠い。比較的今まで自分が築いてきた(あるいは他人に敷いてもらっていた)レールがまだ目の届くところにあり、この先比較的単線的で予定通りを目指す生き方を選ばないとも限らない。でも、そこから外れちゃってもいいし、遅々として進まなかったために他の道に行かざるを得なくなってもよい。その偶然性に身を委ねるのは自然で、怠惰とは限らないと、少なくとも今の自分は結論付ける。

平たく言えば、どうなってもそれなりにつらく楽しいだろうから、何か一つに決めてレールを敷いて急いで前に進もうとしなくとも、追い立てられるまでその場にとどまり通り過ぎゆく目の前の光景を味わえばいいと、1年前の自分に声をかければよいのだろう。

 

 

1年間の自分語りもこんなところで。お付き合いありがとうございました。ブログを再開するという偶然に身を委ねると決めたときには、何卒またよろしくお願いします。

むしゃくしゃ

感情に引きずり回されている。誰かの怒りが理解できないと考えていたら、道行く人の何気ない行動に腹を立てている自分がいて、次の瞬間には今日の失敗を思い返して苛立ちの矛先が自分に向き、解消されたわけでもないのに晩飯は何にしようか、今日は何を読もうかと冷静になる自分がいる。ようやく始めたバイトは時に重荷のように感じられ、いざ始まってしまえば次のシフトも頑張ろうという気になる。法学部のゼミに参加し始めて、この手の学びも楽しいと感じられたのに、予備試験や法科大学院の勉強をするのかと検討し始めると途端に自分の目が曇りゆくのが自分でもわかる。文学部のゼミ発表も準備は楽しかったが、うまくできたようには思えず進学するなどしてこれを続けていけるのかもわからない。

 

また「自分である」との実感が伴う時間軸上の範囲が少し前より大幅に縮まっている。一昨日の自分も、ひと月前の自分も、一年前の自分も同じ「過去の自分」というカテゴリに放り込まれる。未来に目を向ければ三連休明けの自分が「いるだろう」という感覚は湧かない。もちろん予定は立てていて、明日には落命しているのかも、などと心配しているわけではない。

喩えてみると、今まで自分の将来感覚は、梅雨時期に昨日も今日も事実雨だし、天気予報の言うように明日も明後日も雨なのだろうという感覚である。一方で今の自分は、3日後に急に最高気温が7度も下がるとの週間予報を見て、直に冷え込むのだと理解するときのような感覚だ。今までの経験をもとにそれが生じるだろうということは信じられるが、ここ数日暑かったことを思えば急に肌寒くなるのが今一つ実感はわかないような状態と言える。

もちろん3日後の自分が予定や時間割に従って、ある一定の選択肢の中で生きるのだろうという予測はできるが、今日の自分にとってはその様子が今一つ実感し切れない。長期的に計画を練るのが下手になりつつあって、自分の生き方はこんなにも刹那的だったかと困惑している。

 

疾風怒濤とは言い得て妙で、吹き荒れる感情を前になすすべなく、それが止むの願って身をひそめるしかない。内面の動きが激しすぎるから今この瞬間にしがみつくのに精いっぱいで、過去はあっという間に遠くに追いやられ、ほんの少し先の未来しか目が行き届かなくなる。どのように生きればどのような帰結が待つのかある程度知れた状態から、目的地までの道のりは一様ではなく、茫漠とした地平を自ら切り開かなければならない状態に移行しているのだと思う。だからこそ、直近の自分が何をもとにどこへどのように歩いてきたのかの理解が重要だとは思うのだが、すぐにはわからないし腰を据えてじっくり考えるにも吹きすさぶ感情の前ではそこまでのゆとりもない。

 

言語化してしまえば一見いつも話しているような悩みだが「何かいつもと違う」という感覚が確固たるものとしてある。今まではよくわからない感情に名前を与えるべく考えを練っていた。表面上万事順調なのにこのもやもやとした感情は何でどうすればいいのか。おそらく「何かになるための方法」がわからないことへの不安であり、何かであるふりをし続けて何かになれている状態を待つしかないだろうとの結論に至りつつある。

最近の悩み方は違う。一つ一つの感情はわかりやすい。不安、怒り、不可解、落胆、羞恥、厭世。それらがいっぺんに襲い来るのが問題だ。考えがまとまるよりも早く感情が揺れ動き続ける。悩むより先に悩ましいという感情が薄れていく。堪えていれば悩みはなくなってしまう。その原因は決してなくならないのだけど。目先のことへの対応に追われ、そこに一貫性や計画性が見いだせない今の自分の生き方は現象みたいで、のちに振り返った時に何が残っているのかという不安を覚える。

 

そもそも今までの歩みに何か意味のようなものは残るのか、残るべきなのか。高校での経験は話のタネにすることが多く、自分自身がその語りを聞き続ける中、あの経験は今の自分にこう繋がるという「通説」が自分の中に生じた。「通説」の披露こそが他人に自分を語ることだったし、「通説」の妥当性を疑い分析する過程を楽しんでもいた。高校時代の方がよほど着実に前に進んでいたように感じるのは、経験を語る中で記憶を再生産していただけで、当時も今とあまり変わらないくらい無軌道で反応的に生きていた気もする。

流石にもう高校時代の経験を自分の構成要素として語るのも執着しているように感じ気が引けるし、そもそも今の自分との連続性をほとんど実感できない。となれば大学での経験から同じことをすればよいのだろうが、他人に語れるほどの成果を収めてもおらず、そもそも語る機会も乏しく、今までやってきたことの意味合いがよくわからないし、きっと大したことではなかったとの認識に拍車がかかる。最新版の「通説」がないからこそ他人に自分を披露しづらく、自己分析にもそろそろ飽きつつある。

 

別に自分の生き方の意味付けなど必ずしも必要ではないだろう。自己分析なんて就活の時にでもやればよいのであり、普段はバイトやサークルなど「楽しいこと」にいそしめばごちゃごちゃと考え始めなくてよい。無駄なことに頭を支配されるのはだいたいの場合面倒だ。

一方で場当たり的に自らの悩みやすべきことと向き合い、一貫性や信念のないままに対応を続ける自分がふらふらしていて嫌いでもある。目の前のことをきちんとこなしている上えで真面目に見えるかもしれないが、そこには熱意もこだわりもなく、ただ身にかかる火の粉を振り払うようにして実行に移しているので、手放しで歓迎できるものでもないと思う。

 

実際には、即応的な生き方は多くの人が採用しているのが現状であろう。善き生や倫理的な正しさよりも、その場その場での幸福に価値が置かれている世界にも見える。多くの人が人々の中に埋もれることを許容し、みんなのうちの一人として声を上げる。その生き方が楽でやはり悪魔的な魅力がある。そこに身を落としてしまえば万事うまくいくのではないかと何かに囁かれる。

 

自らの生を引き受けるべく生きる意味を問い続け実践に移す努力を重ねていけば、いずれは自分なりの答えが見つかるのかもしれない。いつ見つかるのか、それが人々に理解されるようなものなのかははっきりとしないのだけど。

 

こんな風にして今の自分の考えを記していると、それが自分の経験や学びを下敷きにしていることを実感することができる。これだから独りよがりかもしれないと思いつつもブログをやめられない。

優等生の呪縛

戦略として優等生をしていた。子供は大人が期待するよりも賢い。小学生にもなれば大人の期待する回答をすれば喜ばれることはわかっていたし、それを実行できるくらいの力量はあった。時に大人に反発を覚えることもあった。同級生からなんだあいつつまんねーのとは数えきれないくらい思われていただろう。それでも暮らしていく上で「優等生」というキャラ付けは便利だった。便利だから使っていた。こんなもの別に捨てていいと思っていた。

 

しかし、みっともないことに、亡霊と化した優等生キャラにずっと足をとられている。ある程度年をとればこんなキャラ何の得でもない。期待された解答を打ち出すことなんて誰も期待していない。どう裏切るのかと人はワクワクする。ちょっとくらい生意気な方が可愛がってもらえるし、多少手のかかるくらいの人が不思議と周囲に味方を作る。可もなく不可もない受け答えをし、独力でそれなりにこなせる人間は近くにいると便利かもしれない。無害かもしれない。でも面白くはない。本人が一番痛感している。なんてこいつは退屈な人間だろうとも思う。

 

 

生き方を変えればよいと人は言うかもしれない。そのために行動に移すことだ。新しい何かに挑戦することだ、なんて。しかし、何かを崩すそのこと自体に不慣れでなかなかうまくいかない。旅に出た。山に登った。留学に行った。見知らぬ家族と1ヶ月過ごした。1週間も日常に溶け込めば概ね思考はいつもと同じ軌道に戻る。結局これがもっとも抵抗の小さい生活の仕方なのだと思う。それが精神的にも身体的にも負担が小さいからここに帰着する。習慣によって生活の根本から変えなければならないけれどそこに十分なモチベーションはない。確かに自分はつまらないけれど、そこにさえ目を瞑れば概ね快適だ。

 

手の届かないものは諦めるのにも慣れている。聞き分けはよい。それは優等生の条件だったから。どうしようもないとなれば身を引く。駄々をこねても誰かを困らせてしまう。無抵抗に素直に従っておけば喜ばれる。別にはじめの希望が叶わなくたって世界の終わりではない。代わりとなるものでも案外満足できるものだ。そんなことを繰り返してきたから、自分の望みを何が何でも叶えるための方法はわからないし、そもそもそうまでして達成したいと思えることが自分にあるのだろうか。

 

便利だからと言って他人との衝突を回避し続けるのも考えものだ。好きになれない人間と距離をとることは何一つ間違っていないと思う。でも、無用な対立どころか必要な摩擦まで避けたくなって、人間関係の上辺をなぞる。人を取り巻く殻を破ってしまわぬようそっとなぞる程度で関わりを終わらせる。その人の内奥にある考えや感情のデリケートな部分には触れないし、自分のそれも見せようとしない。それをむき出しにして、相手の内部にずけずけと踏み入るのは子供じみたやり方だ。優等生は大人のやり方を真似して、きちんと距離を保つ。そのやり方がすっかり身に染みついてしまっていて、距離の詰め方がわからない。最近えも言えぬ孤独感を抱くこともある。親に対してすら、殻の外側をなぞるばかりで、仲はいいけどどこかよそよそしい関係を続けてしまっている気がする。

 

自分の人生には他者が不足している。誰かに認められたいと思う時、誰かを見返したい時、誰かに愛されたいと願う時、その誰かとは誰なのだろう。そこに顔はない。こういう時には往々にして、「誰か」と言いながらも具体的な人の顔を浮かべながら語り出すのではないか。しかし、強くこだわりを持ってこの人と思い浮かべることはできないし、自分が他者にとっての誰かになれているような気もしない。誰かの役に立ちたいと願ったとしても、その誰かは実体を持たず熱を持った目標にはなり得ない。誰かにとっての特別でありたいという願いは、その誰かが誰なのかを明らかにできず、叶いようのないものとして燻っている

 

誰ともそれなりにうまくやっていく優等生を続けられたのは、誰とも真摯に接することをどこかで避け続けていたからなのかもしれない。優等生を辞めてからは、多少人と向き合うようになった。自分についてさらけ出したし、相手の吐露を受け止めたいとも思うようになった。でも、自分をある程度しっかりと受け止めてもらえる人物が案外希少だと気づくと、そうした人から嫌われることがものすごく不安になった。相手の内部に入ってしまって取り返しのつかないミスを犯してしまったらどうしようと感じ、結局また殻にこもった人付き合いを始める。

 

無垢な子供であれば自分の考えや感情をむき出しにしても、相手の内部を踏み荒らしても、多少であれば許される。大人が同じことをしてよいわけがない。子供の頃に失敗しながらも学ぶべきだったのか。他人との強い結びつきを感じていれば、結局相手を理解しきれていないし、どうしても自分は孤独なんだという感覚を抱かずに済んだのだろうか。たとえそうだったとしても、あの日の幼い自分の選択に責めを帰すのはあまりに酷だし、今の自分が何とかするしかないのだろう。

 

それは今の生き方全般にしても同じこと。苦の少ない今の生き方を続けるのか。たとえ自分の人生が自分の手から離れてしまったような感覚を今後も抱き続け、どうしようもない孤独感をだましだましやり過ごすしかないかもしれないとしても。あるいは面白い生き方を目指し生活を変えるのか。たとえ今までと違う生き方に強い違和感とストレスを覚え、小さいながらも確実に今までの自分が築いてきたものが無に帰すかもしれないのだとしても。まあこの二分法はやや極端かもしれない。

 

幼い頃からぴったり張り付いていた優等生の亡霊をなんとかしないといけない。目を背け、逃げ続けた結果、取り返しのつかなくなった日がやってくることが何よりも恐ろしい。一年近く供養しようとしながらも未だうまくいっていないのだけど。

言葉の毒

概して言葉とは毒だ。劇薬である。適量であれば薬となり心をほぐし癒しとなる。ただ適量というのはいつも人によって異なるものだ。書き手の側から調節するなどできない。慎重に調合に気を配ってようやく、より多くの人を救える言葉となるが、それでも誰かが傷ついてしまうのは避けがたい事態なのだと思う。

 

時々自分のブログを見返す。自分の思考が一巡りしたのか、以前の記事の内容について未だ回答が出ていないからか、最近は新しい記事を書こうとしても、前も似たようなこと書いたなと思って消してしまう。毎日更新!などにしないのは、自分が本当にブログとしてまとめたいことのみをまとめるには、そんなこと土台不可能だからだ。ある程度書いてもどこかで気に入らなくなったら更新するのを諦めてしまう。一応下書きとして残してあるけどそこから書き改めた例はほとんどない。

 

そんなわけで公開されているものはそれなりに満足したものであり、見返すと時に自分でも発見があり面白い。最近のものを読むと過去の自分に深く共感してしまうし、少し前のものを読むと、全然分析が進んでいなかったり今の自分はすでに乗り越えた事柄を壁と捉えていたりする節があるので面白い。手前味噌で恐縮だが、個人的に「日常」という回が気に入っている(下記リンク。よければご笑覧ください)。

 

ry027.hateblo.jp

 

経緯は忘れたがものすごく憂鬱な気持ちになっていて、読了直後の最果タヒさんの『十代に共感する奴はみんな嘘つき』の影響を受けつつ書いた文章だった。幼く粗い言葉をためらいなく使い、書き終えた後にやけにすっきりしたと記憶している。もう一度こういう表現で文章を書きたいと試したのだが、何度やってもしっくりこない。あの時の自分だからこそ書けた、なんて表現がはじめて実感できた気がした。

 

この手の言葉の毒はわかりやすい。ゲテモノに近い。青臭い悩みで、子供が駄々をこねているような表現で、嫌いな人は一目でブラウザバックするような回だと思う。でも、何ともナルシスティックで嫌だけど、自分ではこの文章が結構クセになってしまっている。他の文章でも、自虐や他人に対する風刺だけど嫌みのない受け容れやすい文章、というのは確かにあるように感じる。ただこれは運よく毒が自分の適量と符合していた時だけだろう。多くの場合、激しく自分を貶める言葉、誰かを糾弾する言葉、馬鹿にする言葉をみると胸が締め付けられる感覚がする。

 

さらに厄介なのは、それが正義感や義憤から発せられたものである時だ。「こんなことをするなんて○○失格だ!」なんて言葉は、被害者にとっては頼もしく力強い言葉なのかもしれない。でもその言葉を投げかける先にいるのもまた同じく「人」である。悪いことをしたのだから、責任ある立場なのだから、そういった声を浴びせられても仕方ない、という考えも一理あるだろう。しかしながら言葉の毒とは苛烈なのだ。本当にそれを浴びせるべきなのだろうか。無意識にせよ、熟慮の結果にせよ、容赦なく毒ある言葉を投げかけている人を見ると、いかに内容が正しくともどうしても委縮してしまう。

 

じゃあ、無菌状態の世界がユートピアかと言われるとそんなことはない。誰かを強く批判した瞬間に、それはポリコレに反しているとして弾圧・疎外を受け、誰しも自分の発言に神経を払いながら過ごすのはあまりにも窮屈な世界だ。繰り返しになるが、書き手の側から毒の配合を完璧にすることなど、ましてや万人が許容できるものにすることなど荒唐無稽な話。どれほど素晴らしい作品でも、必ず不満や不快感を抱くものは存在するはずだ。

 

ただし、だからといって「読み手が自衛するしかない、こっちは言いたいことを言うから自分で取捨選択しろ」と放り投げるのは、さすがに議論が性急だろう。最低限のマナーや身だしなみとして、ひと手間加えたうえで人の目にさらしたいと考えているし、望むらくは多くの人がそうであってほしい。「日常」においてそれは対象を大きくすることとくだけた文体にすることだった。これが機能したか定かではないけど、ゲテモノ感のある文章になった原因はここだと思う。

 

そして、毒をコントロールする「ひと手間」の回答の一つとは、ステレオタイプ的京都人の皮肉ではないかと思う。他者を攻撃する意図はあるけど、字面だけで不快になることはないよう、背後にある文脈をもとに解することができるかでパスワードロックをかけているイメージを持っている。荒々しく言葉を吐き捨てるのもかっこいいが、本当に伝えるべき人にだけ、すっと言葉を刺し込むのもまた乙なもの。

 

やや説教臭い正義面した文章になってしまった。「まぁ。よう書けてはるねぇ。大学の先生にでもならはった方がええんちゃう?」なんて言われてしまった日には、素直に自分の身を省みなければならない。

調律

聞きたくない声に対してはイヤホンをしてお気に入りの音楽を流してしまうのが一番。物理的に音を遮断したいという思いもあるが、それ以上に自分の心の調子を整えるために好きな音や歌詞を欲している側面が強い気がする。苛立ちや不快感でとげとげしくなった気分に言葉が染み込み、丸くなって落ち着く様子が実感できる。

 

そんなこともあって専ら同じ音楽ばかりを聴いている。たまに違う音楽が聴きたくなるけど、結局一つの時期に2,3のアーティストの曲をひたすらに聴いている。そんな感じだから音楽を聴くのが趣味とは言いにくい。どんな曲聴くの?と言われても数が限られているのでそこから話を膨らませることは難しい。このアーティストのこの曲だけはやけに好きだけど、他はそうでもない、みたいなこともあるから本当に答えにくい。

 

音楽のみならず、同じものを摂り続けたいという性格が自分にはあるらしい。あるシリーズの本を話の展開を覚えてしまうほどにまで繰り返し読んだこともある。オチまでわかっているゲーム実況を何度も見てしまったりもする。自炊も同じメニューになっても特に苦はないし(やってみてわかったが、献立を決めるという過程が最も面倒)、思い返せば中高のお弁当の中身も3,4日のサイクルでローテーションになっていた。これでいいのかと親に不安げに聞かれた記憶もあるが、まったくもって不満はなかった。

 

高校の頃は、一度好きになったものに対しては一途な質なのだと、自分のこの性向を理解していたが、どうも違いそうだと最近思い始めている。あまり物事にのめり込めない、少なくともその自覚がない、という自分の性格と整合的な説明がつかない。昔はまっていた音楽や本も今ではすっと冷めてしまっていることも当然ながらある。下手すればふと見返した時になんでこれにあんなにはまっていたのか?と疑問に思うこともある。まあ一途とはそういうものなのかもしれないが。

 

きっと音楽や本を通じて自分を調律しているのだろうと最近は感じている。「いつもの自分」「心地よい状態の自分」であるための一種のルーティンワーク。知見が広がるわけじゃなく、同じものを違う角度から見て思わぬ発見をするわけでもなく、同じものを同じやり方で見る。そして、同じような感情を生起させ、そこに安心感を抱く。あらかじめ笑いどころがわかっていても面白いものは面白い。何度聞いてもこみあげてくるものがある曲がある。いつもと違うことに取り組むときに、いつもと同じ感情を呼び起こして、慣れないことをする時に生じる様々な雑念を抑え、フラットな精神状態にする。耳に馴染んだ音楽をかけた方がかえって集中できて、良くないとは言われながらも勉強中の音楽が手放せなかったのも、これが理由かもしれない。

 

 

人間関係についてもこうした側面を持っていると思う。交友関係を広げたいという願望が乏しい。それは今ある人間関係で十分調律可能であり、新たな友人を作る過程は「いつも」と異なることをする必要があり、そこには不安定さが伴うからだ。「あなたと一緒だと素の自分でいられる」みたいなもの。素の自分が何なのか考え始めるとそれはそれで難儀だが、調和のとれた状態に立ち返ることができるといったところではないかと感覚的に理解している。

 

ものの見方が違っていても不思議と素の自分でいられる友人もいるし、どれほど仲が良くてもどこかかみ合わず、「いつも」から少しずれることを余儀なくされる友人もいる。前者が後者より素晴らしいなんてことは決してない。そして付き合いが長ければ素の自分が出せるようになっていけるわけでもない。一人の友人で調律ができるなんて稀だから、大抵は付き合いの頻度を変えて複数の交友関係の中で調律を果たす。「最近あいつとはどうも調子が合わないからちょっと距離を置こう」みたいな感じだと言えば特別変わった友人観というわけでもないはず。

 

ただ、人間関係の場合は音楽や本と勝手が異なる。欲しい時にはほとんどいつでも利用可能な音楽や本とは違い(改めて考えるとこれができるのはいい時代だ)、人間関係においては自分の希望が常に通るとは限らない。自分の調律のために相手を振り回す、相手がいなければ調律できない、なんて事態は悪い依存をもたらしかねない。道具的に人間関係を用いることはよくない気がする。感覚的なものだけど。自分の調律のために友人を頼ったり、新たな人間関係を築いたり、というのが打算的で欺瞞っぽくて嫌だ。しかし、本心ではそうした事情で人とのかかわりを求めているのだからままならない。

 

趣味と呼べることが少ないのもそれを道具的に使っている側面が強いからかもしれない。我を忘れて楽しむという実感はあまりない。様々な経験の中、絶えず内省する自分がいる。趣味と呼ぶには純度の低い楽しみ方をしているように感じるし、これを趣味と言ってしまうのはなんだか嘘くさい。そういう意味では好きなことと呼べるのはこの調律なのかもしれないが、まあおよそ人にすんなりと納得してもらえるものではないだろう。自己紹介で言ったとしても変わり者のレッテルを貼られて終わりだ。

 

変わらないこと、いつも通りにいられることに安心感と価値を見いだす自分が、変化や挑戦が絶えず求められ、現状維持指向の人間はつまらない、リスクを取れないものは愚かだ、と言わんばかりのこの時代に息苦しさを感じるのは仕方ないことなのかもしれない。

日常

世界はゴミ。なんて大言壮語できる気はしないから、自分はゴミ。


あの日夢見た日々はあっという間に日常にのみ込まれてしまって、なあんだこんなものかぁ、みたいな贅沢な悩み。その境遇を心から欲しがってる人がいるから感謝しなさいなんて言われてもピンとこない。自分もそれを持っていないときは渇望してたよ。その人だって叶えてしまえば今の自分と同じようなことを感じるかもね。

 

海外に行こうが、小さな夢を叶えようが、恋愛しようが失恋しようが、自分は自分で、日常は日常で。あまねくものに感謝できるわけもないし、世界が色を失うわけでもない。あーあ、つまんないの。

お金があれば、時間があれば、健康だったら、なんて前提をかけてもしかしたらあったかもしれない自分に思いをはせるのは救いだ。可能性の中の自分はキラキラと輝く。叶えてしまえばたぶん大したことない。いつもとほんの少し変わった日常が開始するだけ。毎日毎日楽しくて仕方ない!なんて状況が訪れるとは思えない。反実仮想のままにしてしまえば、そんな平凡さには目をつむることができる。何をやっても日常に回収されてしまう現実の中で、これが救いじゃなくて何が救いか。

 

しかしまあ大学生というのは不便なもの。まだまだ可能性が眠っているという言葉に縛られる。若いから何とでもなる、いい時代なんだから挑戦すれば実現するはず、なんて。期待と羨望に満ちた声で大人たちに言われるとそう考えなければならないのかもなぁなんて気になってくる。可能性に満ちた自分?そんなのあるなんて信じてないけど、そうだったらいいのになとは思う。サンタクロースが実際にいたらいいな、みたいな。


あなたらしく生きて、なんていうけれども個性なんてあるんでしょうか。代替可能な物事と焼き直しのような事柄で溢れるこの世界で、そんな世界をぶち壊せるほどの才能や資質を持つとも思えない自分が、自分らしく生きる?凡庸な人生を全うしておけ、ということでしょうか。なんて。そんな挑発的な態度も直に似合わなくなってしまう。


大学の人の言葉は未だにしっくりこなくって、「インターン」も「司法試験」も「官庁訪問」も「楽単」も「コンパ」も「バイト」も。自分の言葉にはなってくれない。ルールの変わり目にうまく対応できなかったし、一度抱いた違和感は簡単には拭えない。”ちゃんと”できなかったなぁなんて思いながら当事者意識は欠落していくばかり。この人どう生きていくんでしょうね、ほんとに。
数年前に憎くて仕方なかった大人みたいに、いつかは自分もなるのかもしれない。いや、なってしまうのだろう。そうなるくらいなら死んでしまった方がマシ、と思っていた熱もなくなり、10年もすれば、ビール片手に、昔は俺も甘かったよ、現実はそうはいかないんだ、なんてこぼしちゃったりして?あの時の自分が嫌いな人間に向けていた眼差しを、向けられるような立場になっても、仕方ないかと開き直ってみたり?あるいはそれすら気がつかないほど鈍感になったり?おえー。


きっとなんとかなるさ、と暢気に構えて生きられる時代ではない。なんてったって人生の先輩を一人で何人も背負いながら、老後の貯金も築いていかなきゃいけないですからねー。孤独死だとか、ワーキングプアとか、中年引きこもりだとか。なんとかならないこともあると暴きたてられていって、なんとかしようと考えてこなかったあなたに責任があるんですよーなんて言われて。

体の成長はもう止まってしまったように、精神やら賢さやらの成長もそろそろ止まってしまっていて、ここから先は適応して、調整していかなければならない。体脂肪率やら血圧やら、今一つ実感のわかない数値に振り回されながら”健康”を保つように、自分らしさとか生きがいとか今一つ掴みどころのないものに振り回されながら、自分の将来を考え”良い人生”を保たなければならない。それを考えずに過ごしてきてしまったのは自分の責任、2000万貯めておけ、って言ったでしょ、なあんて。人生100年時代なんてくそくらえだ。


誰かが悪いわけではなくて、きっと皆が必死に生きている中、勝手に悩んで勝手に苦しんいるだけで。まあでもほんとに苦しいのかはわかんない。好きなライブを見て、おいしいもの食べたら、ああ幸せなんて簡単に言ってしまえるくらい。安い絶望だなぁ。そんなことだからお前はいつまでも中途半端なんだって思うけど、日常に生きているんだから残念ながらそんなもの。


最近、影響を受けた本みたいな文体で書いたけど、似合ってるのかな。これはこれで楽しかった。

暗闇の中で

自信が見つからない。探しても探しても。

自分の好きなこと、興味のあること、得意なこと、自分のすべきこと。何もかもよくわからなくなって、真っ暗闇の中ぽつんと取り残されている感覚を抱く。とりあえず足を動かしている感覚はある。でも、辺りは全く見えないから、正しい方向に進んでいるのかわからない。もしかしたら見当違いな方向に向けて歩んでいるのかもしれないし、真逆を向いてしまっているかもしれない。あるいは、ただ足踏みしているだけで全く進んでいないのかも。足を動かすことすら止めてしまえば、二度と歩き出せない気がして、何とかそれは続けているけれどそれすら辛くなり始めている。

幸いなことにここ一週間、友人と話し込む機会には恵まれており、悩みを聞いてもらっていた。辺りが全く見えなくて、生きるうえでの指針を何にしていいのかわからなくなって、ただ悩みを吐き出していた。

 

いや、きっとどうすればいいのかは薄々感づいているのだろう。自分を支えていた自信がなくなってしまったけれども、そもそもその自信に根拠なんてほとんどないから、部屋に閉じこもってじっと悩み続けたとしても、自信がむくむくと湧き出してくることなんてない。わからないままにやり続けているうちに周りから良くも悪くも評価され、その中できっと得意や好きや自信を見いだしていく。よくわからないままに動き、語り続けないといけない。

でも今の自分の居場所がわからなくて、どの方向に踏み出せばどこへ進むことになるのかが全く見えないのが怖くて、「自分が今やっていること」をどう語っていいのかわからないし、閉塞感から逃れるために何から始めていいのかわからなくなる。きっと何でもいいからやることが大切なのだが、何でもいいからこそ選べない。

本当はグダグダと考えているのもあまり得策ではないことはわかっている。自分の好きなことなんて、強くは意識していないけどやっていて心地よいこと、くらいがたぶん実態に近い。ずっと繰り返しているうちになんとなく好きなのかなぁ、得意なのかなぁとおずおずと語り始めて、そのうち実感が追いついてくるのだと思う。自分の関心事は何か、という問い自体がきっとナンセンスである。

 

と、ここまで自分の悩みをメタ的に認知はしている。きっと今の悩み方はよくなくて、いったん考え込むのを止めて行動に移してみな、と言いたくなるような気持ちもわかるし、自分でも自分に対してそう思う。

それでも悩みこんでしまう。悩まざるを得ない、という表現がしっくりくる。まじまじと見つめてはならないものが目に入るみたいに、シロクマについて考えるなと言われることでかえって頭から離れなくなってしまうという心理実験のように、どれだけ目を逸らそうとしても悩みが立ち上ってくる。

じゃあいっそ、腰を据えて自分の悩みと向き合ってみればいいとも考えた。むしろその時間を十分に確保しようと心がけていた。でも、この悩みに終わりなんてないのだろうかという予感が頭をよぎり始めている。ずっと悩んでも、答えが出なくて、周囲はある程度でキリをつけて次の段階へと進めていく中、自分はどこかに置いていかれてしまうのではないかという焦りと不安に日々襲われる。

 

どれほど悩みを語れたとしても、畢竟自分で何とかするしかない。きっと他人に期待できるくらいのアドバイスは自分でも思い浮かんでいて、実行するか否かの問題だろう。グダグダと理屈を並べ立てて安全できる場所から動き出そうとしないだけにも思えて、実際に相談に乗ってくれている相手もそう感じるんじゃないかと思えて、いつまでもこんな風に語っていると愛想をつかされてしまう気もして、それでもやっぱり行動できるほどのエネルギーもなく、人に話すことで気持ちを楽にできることを求める自分もいて、自分がどうしたいのか、どうすべきなのかがまたわからなくなってしまう。動き出しさえすればいいという結論と、それすらできない自分への苛立ちと情けなさと。そんな自分をさらけ出して誰かに聞いてほしいと思う自分もいて、そんな風に甘えている自分がやっぱり駄目だと思う自分もいて。非合理だなぁと思いながら、何もできていない自分を呆然と眺める。

 

いつになればこの感情は晴れるのか。今日も何もできなかった一日が終わる。