いつかは何かになるために。

中途半端な自分が居直るためのブログ

迷う決断

迷っている。ただひたすらに迷っている。やる/やらないの選択を前に悩む。どの道に進むのがいいのか岐路に立って悩む。今の自分がどこにいるのか、どうすればいいのかわからなくなり、その場にへたり込んでしまいたくなるほど悩む。日頃の鬱憤を晴らすかのように、暴力的なまでにいかに自分が迷っているのかを怒鳴り散らしているのがこのブログだと言っても差し支えない。

 

何かにものすごい速さで運ばれていく僕らに迷っている時間はない。今よりも良い生活、良い自分、良い人生を目指さなければならない、と世間は語るし、広告は謳う。窒息してしまいそうなほど溢れた、「やりたいことをして生きていきましょう」なんて言葉に、もはや吟味なんて一切することなく飛びつく。やりたくないことをやる人生より当然素晴らしいだろう!なんて調子で。結局それが幸せをもたらしてくれるとは限らない。自分が人生をかけてやりたいことって何だ?なんて迷いの始まりかもしれない。

 

幼いうちは「無限の可能性」なんて言葉で迷いが正当化される。君たちは何にでもなれる、一回きりの人生だから悔いのないよう考えなさい。あるいは、年をとれば妥協する権利を得る。もう年だから。若いっていいねぇ、まだなんだってできるじゃん。モラトリアムな大学生は両者の板挟みにあう。若いから何とでもなる、という言葉に猜疑心を抱きながらも苦笑いで頷き、もう年だからという諦めの口実は禁じられながら、近いうちに自分もああして何かを諦めざるを得なくなると自覚させられ、焦りだけが募る。

 

「何かを決断するってことは、何かを捨てるってことや」

教師の何気ない一言で、そんなありふれた事実に愕然とした高1を思い出す。カラオケに行くと決断すれば、同じ時間に家を掃除している自分も、街で偶然出くわした友人と会話を弾ませる自分も、ただ気のすむままにだらだらと家で過ごす自分も、全部捨てられてしまう。たとえどんなにカラオケが盛り上がったとしても、とっ散らかった部屋の片づけに時間を充てるべきだっただろうか、それとも前から観たかった映画に行った方が幸福だったろうか。なんて風に考えていけば、迷うことは終わりを知らない。

 

迷いに歯止めをかけるためには、数えきれない可能性を捨てながら決断した道を、自分自身で認め、愛してやらねばならない。私が選んだこの道は自分らしく生きる上で正しいのだ、と断言してやらなければならない。バイトやサークルに打ち込む者、学問に必死に取り組む者、モラトリアムとしての大学生活を満喫する者、起業しようと一念発起する者。どれだけ自分の選択だけを見つめようとしても、他人の「もっと素晴らしかったかもしれない選択」は嫌でも目に入る。それでも、いかに隣の芝が青く見えても、自分の選択を認めなければこの道でよかったのかという呪縛からは逃れられない。

 

「昔はよい大学・よい企業に行けばよい人生だったけど今は違いますからね」なんてのもありふれた警句だけど、基本的な構造は今でも変わらないのではないだろうか。つまり、やりたいことを決断して迷いのない人生がよい人生。いい年して迷い続けているのは”だめな”生き方。「将来やりたいことで迷っているところです」なんて言った時、相手の表情に張り付いた憐れみと退屈さと優越感を見ると、自分がひどくつまらない存在に見えて、自分の選択を肯定することがひどく困難になる。

 

かといって、かつて多くの人がおそらく無批判に、良い大学へ行くことを第一目標に掲げたように、大して思いれもないことを無条件にやりたいこととして決断して、そこに向かって突き進むのがよいと言えるだろうか。「充実した大学生活」なんてものをただ呑み込んで、その役を演じることで幸せになれるのだろうか。そんな気は一切しないし、それならいっそ、「決断」をでっちあげるよりは「迷い」に正面から向き合い続ける人生の方が面白そうだと思う。

 

決断して真っすぐに進む人生も素晴らしいけれど、本気で迷い続けるのもなかなか魅力的ではないだろうか。これが自分のやりたいことなんだと言い聞かす選択は捨てた自分の道を愛するための、一言目の自己弁護である。

 

 

いつまでも何にもなれないから。

居直るのは思っていたより難しい。どれだけ自分が嫌いでも、それでもどこか期待してしまう。まだまだ俺はこんなもんじゃない、とまではいかなくても、今の自分以上の何かになれるのだと信じ込みたくなる。自己嫌悪の発端はもしかしたらそこにあるのかも。今の自分を否定していないと、これ以上成長できる余地はないんだと認めてしまうことになってしまう。それが怖いから、自分を傷つけて安心感を得ているのかもなぁ、とそんなことを考える。

 

つらい感情とともにようやく息がつける。胸に詰まったもやもやとした感情を、文字に起こして誰かに見てもらえる場所に投げかけて、自分の思いが誰かに届く形に昇華できたのではないかとほんの少しの充足感を得る。でも、徒労感もすごい。自分はこんなにも苦しんでるんだと喧伝しているようで、あるいは誰かに言い訳をしているような気がして、自分は何をしているんだろうな、とまた自嘲する。自分のつらさを吐き出しているだけなのに、それでも誰かからの反応を心待ちにしている自分もいて、他者の承認に飢えている自分がまた嫌いになる。でも、そんなことを思い言葉にしている時点で、「他者に左右されない自分」を理想として掲げ、そうなれる自分の可能性を信じて、他人にすがりたい自分を嫌っているのだろうな、と透けて見える。

 

何かになっている人はきっとそんなこと気にしない。ある人は自分の好みや正しさを疑うことをしないのだろう。自分はこれを好き、という言葉に、本当に?そこまで好きなの?なんて言葉はついてこないのかもしれない。世界で苦しむ子供のために、なんて言える人は、心からそれが自分にできることと信じているか、信じようと努めているのだろう。まあ今の自分にはわからない感覚なので、あくまでも想像にすぎないけれど。そして淡々と努力を重ねる。誰かに見せびらかすでもなく、励ましを求めるわけでもなく。必要なことだから、と静かに闘うのだろう(やや前時代的だろうか?)。

 

今の自分でいいんだ、と自分に言葉をかけることができればそれは幸せの第一歩なのかもしれない。結局のところ向上したいという願望、言ってしまえば一種の欲も尽きないのではないか。きっと高い収入を得るようになればもっとよい暮らしぶりをしている人が目につく。自分に適した職を求めた人も、もっと自分が輝ける環境があるんじゃないかと探し始めるのかも。愛する誰かを見つけた人も、それがずっとは続かないことに名状しがたい不安を抱くのかもしれない。終わりなき欲求にストップをかけられるのが居直りなのかも。

 

でも、それは成長を止めるという、それはそれで恐ろしい副作用を持つのだなぁと感じた。読みたい本を読める生活があるだけで十分だよ、と言えるうちはいいけれど、周りが着々と「よい生活」を送り始める中で、自分が年老いていく中で、同じことが言えているのだろうか。やっぱり若いうちに努力しておけばなぁ、なんて言って死んでいくのは惨めだ。お前は成長しないな、という目で見られて、それでもこれでいい、と居直れるのかと言われれば決心が揺らぐ。

 

自分が本当に求めているのかもわからない目標を掲げて、そこに向けて走り続けるのはそれはそれで当人は幸せなのかもしれない。人脈を広げて、自己投資して、「学生時代に頑張ったこと」を作って、サークルに精を出して。そこに一貫性を求めるでもなく、自分が心から欲する何かを必要とするわけでもなく。他者の欲望するものも自分も欲望しておく。かつて自分がいた地点から進んだことに幸福を感じるという生。結局が意見ばかりが豪華絢爛になっていき、中身が空疎な自分に悩むことになったとしても、周りに見せられる何かすら持っていないよりは、幸せに感じられるかもしれない。

 

まあでもこれも次善の策にすぎないのだろう。現代において「やりたいこと」「パッション」がある人は強いよなぁなんて思う。あなたのやりたいことは、と聞かれて何も答えられない時の屈辱感は何よりも苦い。かといって、自分の本心と異なる「やりたいこと」をでっちあげてもその欺瞞に、他の誰よりも自分が違和感を抱く。やり続けないとパッションも湧いてこない、という人もいるが、「何にでもなれる」とされるこんな時代じゃパッションでもなければそのことをやり続けることはしんどい。他にも自分の可能性が潜んでいるかもしれない道で溢れているから。自分はこれがやりたいという確信か予感がないと結局どこに進むべきなのか磁針が定まらないまま。

 

もやもやとした感情を吐き出すのは少し楽になれるけど、結局居直ることも、次のステップに進むこともできない。ブログやTwitterで弱音ばかり口にしてるのもダメだという見慣れた結論に何度たどり着けば次のステップに進めるのだろう。モノクロームな日常にいい加減別れを告げねば。いつまでも何にもなれないから。

文喫に行ってきました。

自分は本が好きだ、とはなかなか自信をもって言いにくい。自分なんかよりもっともっと本が好きな人はごまんといるだろう。趣味は読書です、というのは自己紹介で鉄板の逃げ方だが、もっと本好きが世にいるなか私なんかがこういうのもおこがましいですが、という長い断り書きをいつも心の中でつけている。

 

でも、「書店好き」ならまだ心置きなく名乗れる気がする。幼い頃、家族でショッピングセンターに行けばいつもまず本屋に入っていた。洋服や食料品にはさほど興味がなかったので、「本屋で待ってる」がそのうちお決まりの台詞になった。なんとなく気になる本を手に取り、ひたすら立ち読みをしていた。ものによっては読み切ってしまい、んーやっぱり買ってまで欲しい本じゃないな、なんて棚に戻したことも数えきれない。迷惑な客である。とりあえず本屋に寄りたくなる、という習慣は今も抜けていない。

 

表紙をこちらに向けて陳列された本、いかにも「面白い!読まなきゃ損!」と言ってくるような帯、ずらっと平積みされた話題の本、どこにどんなジャンルが入っているかを探りながら書棚をめぐるワクワク感、そして、あれもこれも買いたくなる衝動にかられながら、何とか冷静に本を読める時間と財布の残額を計算して本当に買うのか悩む楽しさ。人の2,3倍は本屋に行くだけでテンションが上がっていると思う。

 

町の小さな本屋、というよりは駅やショッピングモールの大きな本屋がいい。棚一面にずらっと並べられたタイトルを眺めたいし、品ぞろえのよさというのはやはり重視したい。古本屋も悪くないが帯がなかったり、これを売りたい!感じられるような陳列はなかったりと、少し物足りない。こんなにも安く買えるなんて!とテンションが上がることはあるけど(BOOKOFFで『自殺論』が108円だったときはこの値段でいいの?と不安にすらなった)。図書館の本は帯がないし、場合によってはカバーすらないので寂しい。学術書も無料で読めるのでありがたく利用させてもらってはいるけど。

 

そんな書店好きがずっと行きたかったのが、六本木にある「文喫」である。テレビで見て、いつか行く!と心に決めていた。この本屋には入場料がある。1500円。まあまあな値段である。しかし、一度入れば営業時間の間店内の本を読み放題、煎茶・コーヒーの飲み放題、wifiや電源も完備、そしてなによりおよそ3万冊の取扱数と、すさまじく快適な環境が用意されている。しかも、あくまで図書館ではなく、本屋である。カバーや帯がついてるし(ここを重視する人がどれくらいいるかはわからないけど)、そしてもちろんどの本も購入可能。

 

この4月から、平日19時以降の来店であれば入場料が1000円に割引されるということで連休前に足を運んだ。想像していたよりはこじんまりとした店内だったが、都会のど真ん中とは思えない静けさが漂う。そして、あまり見たことのないジャンルの本がずらーっと並んでいる。本棚にジャンルごとに並べられていたり、テーマを掲げて机の上に平積みにされていたり、と何とも言えないワクワク感がそそられる。ジャンルごとの陳列という点では京都の大垣書店Suina室町も同じ作りだったが、文喫ではもはや本の検索機すらない。「本と出会うための本屋」というコンセプトにふさわしい、思いがけない一冊に出会うための工夫が凝らされていると思う。

 

その本を立ち読み…ではなく、椅子に座って読むことができる。何冊でも、追加料金もなしに。この喫茶スペースが面白い。ソファも、一人掛けのソファも、カフェのようなテーブルも、丸椅子も、高さや硬さが様々な椅子が並べられている。他のお客さんはなんとなく自分の椅子を決めて座っている中、自分は読む本ごとに座る椅子を変えて楽しんでいた。

 

そして、なんとこの本屋では選書もお願いできる。店員さんに、テーマ、予算、希望冊数、お気に入りの作家さん、などなど、結構丁寧にリクエストを聞いてもらい、3日ほどで担当のスタッフさんに本を選んでもらえる。しかもその本にはその本を選んだ理由を記した栞が挟まれていた。自分の希望に沿って選んでもらえた!と感じられて楽しい。文喫で本を購入することが前提のサービスではあるが本の代金だけで追加料金はかからない。選書のお願い、受取には入場料もかからないので、少し気後れしてしまうくらいいいサービスだと思う。

 

電子書籍Amazonが普及してる時代だけど、だからこそ思いがけない一冊を求めて本屋に入り浸る一日というのは、なかなか乙なものだと思う。

 

 

f:id:ry027:20190430200706p:plain 写真は下記公式サイトより引用


http://bunkitsu.jp/

ままならないから

『ままならないから私とあなた』

朝井リョウさんの作品で最近文庫化されたということで読んだ。案の定、苦しくて美しくて惹き込まれて、ああこの作家さんの作品が好きだなぁと思った。けれど、今回の本題はそれではなく(おすすめです。あまり作家さんかぶらせたくないのでたぶん読書会では扱いませんが)。

 

世の中には理不尽が溢れている。本当に謝罪が欲しい人からはごめんの一言も出てこないし、そこまで思いつめなくてもいいのに、なんて人がどうしようもない悲しみを抱えて一人泣いていたりする。議論を呼ぶような話題がポンっと投下されると、意見がサッと二分される。”相手”となった側には、そんなこと言うなんて考えられない、なんて強い言葉を投げかける。半ば無意識のうちに。あるいは冗談の延長線上で。どっちに立っても誰かを傷つけてしまいそうで、口を噤んで端からただ成り行きを見守る。

 

なんでこんなにうまくいかないんだろう。別に他人に不幸になってほしいわけじゃないのに。みんなで取り合いをしなければならないほど幸せの絶対量が小さいわけでもないだろうに。別に善人面がしたいわけではない。自分も確かに、あんな奴どっかで痛い目見ればいい!と思うことはあるが(しかも一日に何度も、くらいのハイペースで)、でも別にその人を貶めるために生きているわけではない。望まぬうちに他人を不幸にしながら生を営むなんて、何ともままならないことだ。

 

ままならないから、で諦めるのは悪とされる。いじめ、殺人事件、交通事故、差別、政治の問題、などなど、ワイドショーで絶えず流される不幸な出来事。「なぜこんなことが?」「悲劇を繰り返さないためには?」とってつけたようなテロップと、コメンテーターの悲痛な顔を添えたコメントで飾り付けられる。原因究明と解決策の考案が大切。そんな暗黙の了解が存在し、まーこんな世の中ですからねー、なんて言った日には総スカンを食らうだろう。下手したら、なぜこのコメンテーターはそんな発言をしたのか?責任感の欠如でしょうね。報道番組を担うことの責任性をタレントも自覚していかなければなりません、なんてコントみたいな展開が繰り広げられかねない。

 

なにも社会だけの問題ではなく、個々人においてもそうじゃないのか。求められることと現状に違いがあれば、なんで努力しないの?と言われる。あー、仕方ないねー、君には才能がないからねー、と言うのは”残酷”なことだから。でも、手を伸ばせば届くとも限らないものに向けて、頑張りなさいと鼓舞され、それでも結果が出なければ、次こそきっとうまくいくよ、なんて言われ、そっちの方がよっぽど残酷ではないか。努力は報われるとは限らない。じゃあ、部活の練習にしろ、受験勉強にしろ、バイトでの経験にしろ、資格取得にしろ、人脈作りにしろ、今やっている”これ”は何になるのか、なんて考えてしまって虚しくなってしまいそうだけど。虚しさから目をそらすために、努力を説くのかもしれないけど。

 

ままならないから、で放置することは確かに望ましくない。咽び泣く人の前を素通りして、問題が存在していることに気づかないままに終えてしまうようなのは、少なくとも社会的にはよくない。かといって、そこに解決策があるとは限らない。根本的な問題解決は諦めたうえで、対処療法としてうまく付き合わなければならないことなんて、そこら中に転がっている。何とかしようと努力しないのなんて傲慢だ!自分のよい環境を甘受したいだけだ!という謗りが待ち構えているのかもしれないが、何とかしようとすれば何とかなる、という信念の方がよっぽど傲慢だと思う。

 

ままならないことに立ち向かえ、という言葉は正しい。その姿勢が多くの人の幸せをもたらすことを忘れてはならない、ということもできるだろう。ただ、そのメッセージこそがさらなる苦痛を生んでいる可能性にも目を向けていたいのだ。その卓越した能力を社会問題の解決に注ぎ、自分以外の人も幸せになるよう行使しなさい、なんてメッセージを投げかけられうる立場にある者からすれば、それもある種暴力的ですよ、とこぼしたくなる。

 

高校の頃、諦めてしまった大人の目が嫌いだった。そんなことどうにもならないよ、そういう人もいるんだよ、それでもうまくやっていかないといけないんだ、仕方ないんだと割り切ることも覚えなくてはならない、それが社会だ、大人になるということだ―そんな言葉で濁ったような大人の目が嫌いだった。その度に、こんな風にはなりたくない、と決意を固めていた。

 

ままならないんだ、と語る大人も許されたかったのかもしれない。充実した人生のため、よりよい社会のため、日本の未来を担う子供たちの養成のため、途方に暮れるような問題を前にして、何とかしなさいと言われる状況から許されたかったのかもしれない。

 

そう考えてしまうと以前ほど、諦めてしまった大人の目を憎めない。あー、こんな風にして大人になっていくのかもな、なんて思いを抱え、ままならない世界での抗い方を考えながら、今日もまた夜が更ける。

【宣伝】『雑談以上、批評未満。』

オンライン読書会を立ち上げました。立ち上げたといっても、Googleメーリングリストとドキュメントでグループを作り、Twitterで宣伝しただけなので大したものではありませんが。今回のブログは100%宣伝目的。どういう思いでやろうと決めたのか、どんな感じで進めていく予定なのか、を書いてみるので、読書会に興味ある人もそうじゃない人も読んでみてください。

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ああ、語りたい…

持論だが、ページをめくる手が止まらず、徹夜してしまいたくなるのが「面白い本」だと思う。そろそろ寝なきゃと思いながらもページを繰り続け、読了後の満足感であったり爽快感であったり、時には後味の悪さを感じながら寝るのが楽しみの一つである。今まではそれで満足していたが、最近欲が出始めてきた。本の感想について語り合ってみたい…。

単におすすめの本として友人に勧めるのでは不十分である。大抵「また今度読んでみる」で終わってしまう。たとえ次に会う時までに読んできてくれたとしてもその頃には勧めたときほどの熱は持てていないかもしれない。

ブログでもやや足りない。自分の好きな本について思い切り感想を伝えることはできるけれど、反応が返ってくるとは限らない。Twitterじゃ字数が足りない。「いいね」だけで終わってしまうのも味気ない。

読書会がたぶん理想的な環境なんだろうけど、ソーシャルイベントは苦手。なんとなく「三度の飯より本が好き」みたいな人が集まっていそうで気後れする。あと、自分がやりたいのは、本の紹介会の類ではなく感想会である。十把一からげに「読書会」と言ってもいろんなタイプがあるのでその辻自分に合うのを探すのも大変そうだ。

 

作っちゃえ

大学のサークルで読書会ができるところを探してみるか。でも予定合うかわからないし、やっぱりちょっと怖いな。そういや、最近入ったサークルはメーリス登録だけで、行ける・行きたい企画の連絡が回ってこれば、個別に参加の旨を伝えるってやり方だったな。あれくらいの気楽さのサークルがあればなぁ。

そんなことを考えながら授業を受けていたら、ふと思いついた。これ、案外簡単に実現するんじゃないか…?メーリスはすぐにでも作れる。肝心な読書会のやり方だが、対面で話すことは無理、となると、グループ通話でもいいが、あれはあれで話しにくい。

いっそ、書くというのはどうか。ブログに書く感覚で感想をまとめて、そこに対してしっかり反応が返ってくるよう取り決めれば…いや、それが難しくても、同じ本に対していろんな人がいろんな角度から感想をエッセイにまとめていたら、十分「語り合い」に近いことはできるのでは…。

粗削りなアイデアではあるが、万一失敗してしまっても大きな損害はない(会員さんに迷惑がかかってしまうので、何とか成功させようという気概なのはもちろんだが)。うだうだ考えこんでやる気がしぼんでしまう前に、形にしてしまおう、とできたのがオンライン読書会『雑談以上、批評未満。』である。

 

読書会のイメージ

タイプとしては、会員で決めた本を読んでその感想を共有する、というものである。おすすめ本を紹介しあう、という感じのものではない。目安として月に1,2冊。以前少し顔を出していた読書会は、毎週違う本でやっていたけどあまりに忙しない感じだったので。ゆるーく参加できる読書会を目指しているので、とても手が回らない、みたいな状態になってしまうなら月に1冊で十分だろうと思う。

毎月「今月の本」をメーリスで連絡して、目安日までにエッセイを書いてもらう。主に小説にするつもりだけど、それもまあ参加してくれる人の希望を探りながら決めるつもりだ。

エッセイとはいうものの、文のうまさ・話の面白さが欲しいわけではなくて、思ったままに書いてもらえれば十分だと思う。読書感想文が読みたいわけでも、レポートが読みたいわけでもなく。日記をつけるように、ノートの端っこに暇つぶしがてらちょこちょこと思い浮かんだことを書くように、気軽に書いてもらいたいな、と思う。

一応、スケジュール管理のため、目安日は作るけれども、過ぎたところで催促をしたいわけでもない。文章を書くのは自信がないから、とりあえず最初はほかの人のを読むだけで…という参加もありにしたい。今月は忙しいから参加できない、っていうのも全然問題ない。気軽にゆるーく参加できる読書会にしたい。それこそオンラインでやる強みだと思うし。あまりにも誰も書かなくなってしまったら困るけど。

 

今後やりたいこと

ある程度人が集まり、オンラインで感想を「語る」ことが軌道に乗れば、この読書会を場として参加者が思い思いの企画を持ち寄れるようにしたい。ある人は今話題の本についてできるだけ多くの人の感想を聞きたい、と呼びかけ、ある人は自分の興味分野の学術書について少人数で考察を練りたいと、と呼びかけ、ある人はリドルストーリーの結末を考えてみよう、と呼びかけ、興味のある企画にふらっと参加できる。そんなオンライン読書会にしたい。

ある程度長く続けられそうなら、「今月の本」を再度読み、語り合うというのも面白そうだと思う。前回のエッセイで何を書いたっけな?くらいの状態で、自分の書いたことやほかの人が書いていたことを読み返し、それをもとにもう一度読んでみる。初読では気に留めてすらいなかった部分が、読書会での交流を通じて、忘れられない一節になっていた、なんて読書体験を提供したい(し、自分でも味わいたい)。

 

 

年齢不問。もちろん参加費も特になし。Googleアカウントさえあれば誰でも参加可能のオンライン読書会。雑談よりは少しのめりこんで本の感想を語り、でも批評ほど専門知識が必要なわけではない。そんな語らいのために、試行錯誤しながらやっていきたいと思います。

興味がある方、ぜひお待ちしています!

 

入会フォームはこちら:https://forms.gle/CjUuW6SpzcD9VXgG9

お問い合わせはこちら:zatudanhihyo@gmail.com

正解だらけのこの世界で

高校時代の閉塞感はなんと表せばよいのだろう。クラスメイトの馬鹿らしい会話。何荷役が立つのかもわからない勉強。大人であることの面倒くささが透けて見える教師。何度も何度も頭によぎる大学受験への不安。決まった時間に家を出て、決まった時間に授業が始まり、流れ作業で勉強をこなし、決められた日には塾に行き、決まった時間に入る。昨日と今日で変わるのは、問題集のどこを解いたか、ということくらいで、たまにすでに見たことあるかのようなテストを受けて、成績のわずかな上下に喜び悲しむ。

そんな生活にうんざりしていた。ここにいたところで何にもなれないことはわかっていた。どこか遠くへ。見たこともない場所へ。そう願って受験を乗り越えたけれど、単に次なる箱庭が待っていただけだった。どこまでもどこまでも広がっている空を見上げなければならない閉塞感が待っているだけだった。

 

この箱庭では何をしてもいい。真面目に授業を受けようが、適当にやってさぼろうが、一心不乱にスポーツに打ち込もうが、バイトやインターンに打ち込もうが、自ら団体を立ち上げようが、休学しようが、何をやっても正解である。それはそれ。その人の大学生活。否定する必要もないし、みんながそれを目指す必要もない。何をやってもいいんだよ、やりたいことをやればいい。世間には優しい顔でそんなことを口にする悪魔ばかりだ。何もかもが正解になる世界は、「素晴らしい」のかもしれないが、別に幸せになれるとは限らない。

 

いい大学に行っていい企業に行けばいいという時代は終わりました!自分たちが何よりも信じていたはずなのに、大人は過去の自分の夢を笑顔で否定する。あるいは、その夢を独り占めするかのように。君たちはこれを目指す時代に生きていないんだよ、と言わんばかりに。

代わりに大人が唱えるのは、自分らしく生きること。自分の個性を発揮すること。ずっと同じ企業に働かなくてもよい。スキルのある人間は正当に評価されるがいい、年功序列など関係なしに。主体的に将来を設計していかなければならない。今までの日本のやり方は通用しない。なんてったってグローバル化の時代なんだから。別に僕たちが今までのやり方を変えるとは限らないけど。

それにしても昔はいい時代だった。あ、でも、君たちは成長思想を続けることはできないよ。環境問題が大変だからね。持続可能な社会にしないと。最近の若者はすぐに帰るよな。俺らの若い頃は懸命に働いたのに。でも、確かに仕事一辺倒な人間はダメだよね。ワーク・ライフ・バランスが大切。大変な時代だけど、頑張っていかなければならないんだよ。なんてったって君たちは未来社会を担う人材なんだから!

 

 

それぞれの生き方、それぞれの社会問題は強烈な影響力を持つ。「大企業での安定した生活」に引き付けられた人々が、一心不乱に受験競争を乗り越えたように、何か一つに引き込まれればその指針に従って真っすぐ歩めるのかもしれない。必ずしもそれが「正しい」道でなかったとしても。

今はそんなに甘くない。国際社会に蔓延る課題。日本社会を蝕む病理。あるいは、自分の全てを捨てて弱い者を助ける生き方。好きなことだけをやり続けて十分なお金を稼ぐという道。大きな影響力を持つ何かが、自分の人生に近づき十分に咀嚼する前に、また他のすさまじい影響力を持つ何かが向こう側からやってくる。自分の人生の指針は、その影響力に翻弄されて、あちらこちらへと揺れ動く。磁針が狂わされるのが嫌ならば、何かをしっかりと掴み、離さず、自分の人生の軸にしなければならない。

でも、それを掴めるのか?その何かが自分の人生の方向を真に決定づけるものとは限らないのに。どうせ同じように強い影響力を持つ何かがやってくれば、また磁針は狂ってしまうだろうに。その程度の覚悟なのに。他の物事に振り回されたくないという一心で固めた決意に、いったいどれほどの価値があると言えるのだろう。

 

広い広い大学という世界にやってきた。でもここにも外圧はかかる。社会に出たら貢献しなさい。まあでも今は遊んでおきなさい、そんな機会もうないかもしれないのだから。何をしてもいいけど、意義ある大学生活にしなさいね。自由という名の不自由に縛られる。きっと社会に出ても同じ。いまよりもっと広くなるかもしれないけれど、きっとそれも箱庭。世間体のため。家族のため。親のため。お金のため。どうしようもないことに縛られながらも自分で決めたかのように、自分を納得させながら生きなければならない。

 

それが嫌なら自分の打ち込める何かを見つけなさい。「やりたいこと」があるのは素晴らしい。世界中を飛び回って働く?発展途上国の貧しい子供のために働く?大好きな地元の再生のために働く?高校や大学の友達と協力して若い力で世界を変えていく?どれでも選べばいい。「やりがいのある」人生は一通りリストアップして教え込んでおいてあげたから。昔はどれも夢物語だったかもしれない。よほど早くから動き出しておかないとできないことだったかもしれない。でも今はできる。技術革新やらグローバル化やらのおかげで。君には無限の可能性があるんだよ。無駄にしてしまうのは他でもない君の責任だ。

 

 

今の社会は昔よりずっと幸せなのかもしれない。それは今の大人の功績なのだろう。それは否定しない。ぬくぬくと享受している自分たちに非難する権利はないと思っている。でも、その輝かしい功績が、現代の、若者の、息苦しさや生きづらさを隠してしまうのならば、箱庭の外から響く声によって、あたかも自分が好んで選んだように自分のやりたいことを、自分の人生を、規定されてしまうのならば、それには声を張り上げ立ち向かいたい。

 

少なくとも、それは、いまここの自分がやりたいことだ。心から。お金にも、社会的な価値にもならないとは思うけれど。

Uber eats 日記 #3こんなつもりじゃなかった

このシリーズは、Uber Eatsのバイトの感想や起きたハプニングなどを、もちろん個人情報はわからないように、まとめたものです。

 

1ヶ月 Uber eats を休んでいた。1ヶ月である。休みすぎだろ、自分。これでも怒られないって最高かよ、Uber eats なんて思っていたら、しばらく配達なされていませんが、なんでですか?続ける気あるんですか?ってアンケートで聞かれた。いくら自由度の高いバイトと言えども、さすがに1ヶ月も休むと心配されるのだ。

 

体調もよくなり、気候もいいので久々の配達に出た。日曜日。東京は満開の桜。いい具合に日が照っている。3月末。新学期に向けて忙しなく過ごす社会人や学生も多いのだろうか。昼ご飯買いに出る気にもならないって人が多いのだろうか。そういえば、何かキャンペーンが実施されてた気もする。何が言いたいかというと、尋常じゃない勢いで配達依頼が入った

 

配達していて一番無駄な時間は、注文待ちの時間だと思っている。出来高払いなので、待っている時間には給与は出ない。どこかに移動するのもかえって無駄足になるかもしれない。かといって、持ち歩く自分の荷物は必要最低限にしておきたいので、暇つぶしのアイテムもない。スマホをいじっていると充電が減り、稼働できる時間が減る。できることなら絶え間なく注文が入るのが嬉しいのだ。

 

下北沢あたりから配達を始めたつもりが、代々木上原の方へ届けにいくことになり、大勢の人でごった返す代々木公園への配達が入り、渋谷のお店の注文かと思いきや、次は南青山のお店の注文が入り…。気づけば赤坂にいた。

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この画面の左端から右端まで移動したことになる。何が恐ろしいって、帰宅しないといけないのだ。自転車で。今の住まいは、もはやこの画面には映っていない部分にある。普通に電車で帰宅してもまあまあ時間がかかる。そこを自転車で。疲労困憊したこの身体で!はは、まじかよ…って気分だった。ここまで来てしまえばもう自棄になっていて、赤坂からまた少し離れたところまで配達してから、結局距離にして8km、時間にして40分ほどかかって何とか自宅にたどりついた…。んー、こんなつもりじゃなかったぞ。

 

Uber eats にはクエストというのがある。一定期間に一定件数配達を終えると、一定額の報酬が追加でもらえるのだ。時期も件数も金額もそのクエストによって違うが、配達報酬に上乗せしてもらえるので、ついつい達成したくなる。そんなわけで、昨日1日で10件終えることを自身のノルマとして課していた。頑張った甲斐もあり、昼のうちに8件は終わっていた。夜にあと2件やってしまえばノルマクリア。

 

1件目は家の近くからスタート。まあ普段と同じくらい離れた場所に食事を届け、配達中に受注した、2件目に向かう。駅2つ分くらい先の店まで取りに行かないといけない。しかも自宅とは逆方向。ついてないけど、まあこれで今日はあがれるからなぁなんてのんきにペダルを漕いでいた。ここまでは。

 

荷物を受け取り、届け先を確認すると、遠い。あとから確認すると2.6km先だった。輸送距離に応じて報酬額も上がるが、1件は1件である。つまり、クエストには影響しない。2.6kmも、1㎞未満も、同じようにカウントされる。せっかく早く上がれると思ったのに。しかも、笑えるくらい自宅と真逆の方向。さらには、普段いかない土地勘ゼロの場所!結局、この夜の帰り道も3.7kmだった。たった2件で。数珠つなぎのように遠くにいったわけでもないのに!!こんなつもりじゃなかった。夜はさっさと切り上げて家でゆっくり過ごすつもりだった…。

 

まあいい。ものすごく疲れたけど、その分稼ぎにもなった。実働時間で時給換算すると2000円くらいになるし!まあよく頑張ったよ、と思いアプリの収支欄を確認すると、なぜか金額が少ない。稼いだはずの金額の半分以下になっている…。履歴を見て思い出した。配達カバンのデポジット代払いきってなかった…。

 

Uber eats では配達カバンのタダ取りを避けるために、8000円のデポジット代が4回に分けて稼ぎから天引きされる。まあデポジット代なので、辞めるときに返金されるのだが、直近で口座に入金される額は減る。1週間毎に報酬が送金されるため、週の初めには収支ゼロの状態からスタートとなる、が、1ヶ月休んでいる間に2回分の天引きがなされていて、実は昨日の配達はマイナス4000円からのスタートだったのだ!損はしていない。デポジット代はいつか払わないといけないもんだし、そもそも返金されるし…。でもアプリ上の本日分の稼ぎは頑張った割に少ない…。あー!こんなつもりじゃなかったのに!!