いつかは何かになるために。

中途半端な自分が居直るためのブログ

調律

聞きたくない声に対してはイヤホンをしてお気に入りの音楽を流してしまうのが一番。物理的に音を遮断したいという思いもあるが、それ以上に自分の心の調子を整えるために好きな音や歌詞を欲している側面が強い気がする。苛立ちや不快感でとげとげしくなった気分に言葉が染み込み、丸くなって落ち着く様子が実感できる。

 

そんなこともあって専ら同じ音楽ばかりを聴いている。たまに違う音楽が聴きたくなるけど、結局一つの時期に2,3のアーティストの曲をひたすらに聴いている。そんな感じだから音楽を聴くのが趣味とは言いにくい。どんな曲聴くの?と言われても数が限られているのでそこから話を膨らませることは難しい。このアーティストのこの曲だけはやけに好きだけど、他はそうでもない、みたいなこともあるから本当に答えにくい。

 

音楽のみならず、同じものを摂り続けたいという性格が自分にはあるらしい。あるシリーズの本を話の展開を覚えてしまうほどにまで繰り返し読んだこともある。オチまでわかっているゲーム実況を何度も見てしまったりもする。自炊も同じメニューになっても特に苦はないし(やってみてわかったが、献立を決めるという過程が最も面倒)、思い返せば中高のお弁当の中身も3,4日のサイクルでローテーションになっていた。これでいいのかと親に不安げに聞かれた記憶もあるが、まったくもって不満はなかった。

 

高校の頃は、一度好きになったものに対しては一途な質なのだと、自分のこの性向を理解していたが、どうも違いそうだと最近思い始めている。あまり物事にのめり込めない、少なくともその自覚がない、という自分の性格と整合的な説明がつかない。昔はまっていた音楽や本も今ではすっと冷めてしまっていることも当然ながらある。下手すればふと見返した時になんでこれにあんなにはまっていたのか?と疑問に思うこともある。まあ一途とはそういうものなのかもしれないが。

 

きっと音楽や本を通じて自分を調律しているのだろうと最近は感じている。「いつもの自分」「心地よい状態の自分」であるための一種のルーティンワーク。知見が広がるわけじゃなく、同じものを違う角度から見て思わぬ発見をするわけでもなく、同じものを同じやり方で見る。そして、同じような感情を生起させ、そこに安心感を抱く。あらかじめ笑いどころがわかっていても面白いものは面白い。何度聞いてもこみあげてくるものがある曲がある。いつもと違うことに取り組むときに、いつもと同じ感情を呼び起こして、慣れないことをする時に生じる様々な雑念を抑え、フラットな精神状態にする。耳に馴染んだ音楽をかけた方がかえって集中できて、良くないとは言われながらも勉強中の音楽が手放せなかったのも、これが理由かもしれない。

 

 

人間関係についてもこうした側面を持っていると思う。交友関係を広げたいという願望が乏しい。それは今ある人間関係で十分調律可能であり、新たな友人を作る過程は「いつも」と異なることをする必要があり、そこには不安定さが伴うからだ。「あなたと一緒だと素の自分でいられる」みたいなもの。素の自分が何なのか考え始めるとそれはそれで難儀だが、調和のとれた状態に立ち返ることができるといったところではないかと感覚的に理解している。

 

ものの見方が違っていても不思議と素の自分でいられる友人もいるし、どれほど仲が良くてもどこかかみ合わず、「いつも」から少しずれることを余儀なくされる友人もいる。前者が後者より素晴らしいなんてことは決してない。そして付き合いが長ければ素の自分が出せるようになっていけるわけでもない。一人の友人で調律ができるなんて稀だから、大抵は付き合いの頻度を変えて複数の交友関係の中で調律を果たす。「最近あいつとはどうも調子が合わないからちょっと距離を置こう」みたいな感じだと言えば特別変わった友人観というわけでもないはず。

 

ただ、人間関係の場合は音楽や本と勝手が異なる。欲しい時にはほとんどいつでも利用可能な音楽や本とは違い(改めて考えるとこれができるのはいい時代だ)、人間関係においては自分の希望が常に通るとは限らない。自分の調律のために相手を振り回す、相手がいなければ調律できない、なんて事態は悪い依存をもたらしかねない。道具的に人間関係を用いることはよくない気がする。感覚的なものだけど。自分の調律のために友人を頼ったり、新たな人間関係を築いたり、というのが打算的で欺瞞っぽくて嫌だ。しかし、本心ではそうした事情で人とのかかわりを求めているのだからままならない。

 

趣味と呼べることが少ないのもそれを道具的に使っている側面が強いからかもしれない。我を忘れて楽しむという実感はあまりない。様々な経験の中、絶えず内省する自分がいる。趣味と呼ぶには純度の低い楽しみ方をしているように感じるし、これを趣味と言ってしまうのはなんだか嘘くさい。そういう意味では好きなことと呼べるのはこの調律なのかもしれないが、まあおよそ人にすんなりと納得してもらえるものではないだろう。自己紹介で言ったとしても変わり者のレッテルを貼られて終わりだ。

 

変わらないこと、いつも通りにいられることに安心感と価値を見いだす自分が、変化や挑戦が絶えず求められ、現状維持指向の人間はつまらない、リスクを取れないものは愚かだ、と言わんばかりのこの時代に息苦しさを感じるのは仕方ないことなのかもしれない。

日常

世界はゴミ。なんて大言壮語できる気はしないから、自分はゴミ。


あの日夢見た日々はあっという間に日常にのみ込まれてしまって、なあんだこんなものかぁ、みたいな贅沢な悩み。その境遇を心から欲しがってる人がいるから感謝しなさいなんて言われてもピンとこない。自分もそれを持っていないときは渇望してたよ。その人だって叶えてしまえば今の自分と同じようなことを感じるかもね。

 

海外に行こうが、小さな夢を叶えようが、恋愛しようが失恋しようが、自分は自分で、日常は日常で。あまねくものに感謝できるわけもないし、世界が色を失うわけでもない。あーあ、つまんないの。

お金があれば、時間があれば、健康だったら、なんて前提をかけてもしかしたらあったかもしれない自分に思いをはせるのは救いだ。可能性の中の自分はキラキラと輝く。叶えてしまえばたぶん大したことない。いつもとほんの少し変わった日常が開始するだけ。毎日毎日楽しくて仕方ない!なんて状況が訪れるとは思えない。反実仮想のままにしてしまえば、そんな平凡さには目をつむることができる。何をやっても日常に回収されてしまう現実の中で、これが救いじゃなくて何が救いか。

 

しかしまあ大学生というのは不便なもの。まだまだ可能性が眠っているという言葉に縛られる。若いから何とでもなる、いい時代なんだから挑戦すれば実現するはず、なんて。期待と羨望に満ちた声で大人たちに言われるとそう考えなければならないのかもなぁなんて気になってくる。可能性に満ちた自分?そんなのあるなんて信じてないけど、そうだったらいいのになとは思う。サンタクロースが実際にいたらいいな、みたいな。


あなたらしく生きて、なんていうけれども個性なんてあるんでしょうか。代替可能な物事と焼き直しのような事柄で溢れるこの世界で、そんな世界をぶち壊せるほどの才能や資質を持つとも思えない自分が、自分らしく生きる?凡庸な人生を全うしておけ、ということでしょうか。なんて。そんな挑発的な態度も直に似合わなくなってしまう。


大学の人の言葉は未だにしっくりこなくって、「インターン」も「司法試験」も「官庁訪問」も「楽単」も「コンパ」も「バイト」も。自分の言葉にはなってくれない。ルールの変わり目にうまく対応できなかったし、一度抱いた違和感は簡単には拭えない。”ちゃんと”できなかったなぁなんて思いながら当事者意識は欠落していくばかり。この人どう生きていくんでしょうね、ほんとに。
数年前に憎くて仕方なかった大人みたいに、いつかは自分もなるのかもしれない。いや、なってしまうのだろう。そうなるくらいなら死んでしまった方がマシ、と思っていた熱もなくなり、10年もすれば、ビール片手に、昔は俺も甘かったよ、現実はそうはいかないんだ、なんてこぼしちゃったりして?あの時の自分が嫌いな人間に向けていた眼差しを、向けられるような立場になっても、仕方ないかと開き直ってみたり?あるいはそれすら気がつかないほど鈍感になったり?おえー。


きっとなんとかなるさ、と暢気に構えて生きられる時代ではない。なんてったって人生の先輩を一人で何人も背負いながら、老後の貯金も築いていかなきゃいけないですからねー。孤独死だとか、ワーキングプアとか、中年引きこもりだとか。なんとかならないこともあると暴きたてられていって、なんとかしようと考えてこなかったあなたに責任があるんですよーなんて言われて。

体の成長はもう止まってしまったように、精神やら賢さやらの成長もそろそろ止まってしまっていて、ここから先は適応して、調整していかなければならない。体脂肪率やら血圧やら、今一つ実感のわかない数値に振り回されながら”健康”を保つように、自分らしさとか生きがいとか今一つ掴みどころのないものに振り回されながら、自分の将来を考え”良い人生”を保たなければならない。それを考えずに過ごしてきてしまったのは自分の責任、2000万貯めておけ、って言ったでしょ、なあんて。人生100年時代なんてくそくらえだ。


誰かが悪いわけではなくて、きっと皆が必死に生きている中、勝手に悩んで勝手に苦しんいるだけで。まあでもほんとに苦しいのかはわかんない。好きなライブを見て、おいしいもの食べたら、ああ幸せなんて簡単に言ってしまえるくらい。安い絶望だなぁ。そんなことだからお前はいつまでも中途半端なんだって思うけど、日常に生きているんだから残念ながらそんなもの。


最近、影響を受けた本みたいな文体で書いたけど、似合ってるのかな。これはこれで楽しかった。

暗闇の中で

自信が見つからない。探しても探しても。

自分の好きなこと、興味のあること、得意なこと、自分のすべきこと。何もかもよくわからなくなって、真っ暗闇の中ぽつんと取り残されている感覚を抱く。とりあえず足を動かしている感覚はある。でも、辺りは全く見えないから、正しい方向に進んでいるのかわからない。もしかしたら見当違いな方向に向けて歩んでいるのかもしれないし、真逆を向いてしまっているかもしれない。あるいは、ただ足踏みしているだけで全く進んでいないのかも。足を動かすことすら止めてしまえば、二度と歩き出せない気がして、何とかそれは続けているけれどそれすら辛くなり始めている。

幸いなことにここ一週間、友人と話し込む機会には恵まれており、悩みを聞いてもらっていた。辺りが全く見えなくて、生きるうえでの指針を何にしていいのかわからなくなって、ただ悩みを吐き出していた。

 

いや、きっとどうすればいいのかは薄々感づいているのだろう。自分を支えていた自信がなくなってしまったけれども、そもそもその自信に根拠なんてほとんどないから、部屋に閉じこもってじっと悩み続けたとしても、自信がむくむくと湧き出してくることなんてない。わからないままにやり続けているうちに周りから良くも悪くも評価され、その中できっと得意や好きや自信を見いだしていく。よくわからないままに動き、語り続けないといけない。

でも今の自分の居場所がわからなくて、どの方向に踏み出せばどこへ進むことになるのかが全く見えないのが怖くて、「自分が今やっていること」をどう語っていいのかわからないし、閉塞感から逃れるために何から始めていいのかわからなくなる。きっと何でもいいからやることが大切なのだが、何でもいいからこそ選べない。

本当はグダグダと考えているのもあまり得策ではないことはわかっている。自分の好きなことなんて、強くは意識していないけどやっていて心地よいこと、くらいがたぶん実態に近い。ずっと繰り返しているうちになんとなく好きなのかなぁ、得意なのかなぁとおずおずと語り始めて、そのうち実感が追いついてくるのだと思う。自分の関心事は何か、という問い自体がきっとナンセンスである。

 

と、ここまで自分の悩みをメタ的に認知はしている。きっと今の悩み方はよくなくて、いったん考え込むのを止めて行動に移してみな、と言いたくなるような気持ちもわかるし、自分でも自分に対してそう思う。

それでも悩みこんでしまう。悩まざるを得ない、という表現がしっくりくる。まじまじと見つめてはならないものが目に入るみたいに、シロクマについて考えるなと言われることでかえって頭から離れなくなってしまうという心理実験のように、どれだけ目を逸らそうとしても悩みが立ち上ってくる。

じゃあいっそ、腰を据えて自分の悩みと向き合ってみればいいとも考えた。むしろその時間を十分に確保しようと心がけていた。でも、この悩みに終わりなんてないのだろうかという予感が頭をよぎり始めている。ずっと悩んでも、答えが出なくて、周囲はある程度でキリをつけて次の段階へと進めていく中、自分はどこかに置いていかれてしまうのではないかという焦りと不安に日々襲われる。

 

どれほど悩みを語れたとしても、畢竟自分で何とかするしかない。きっと他人に期待できるくらいのアドバイスは自分でも思い浮かんでいて、実行するか否かの問題だろう。グダグダと理屈を並べ立てて安全できる場所から動き出そうとしないだけにも思えて、実際に相談に乗ってくれている相手もそう感じるんじゃないかと思えて、いつまでもこんな風に語っていると愛想をつかされてしまう気もして、それでもやっぱり行動できるほどのエネルギーもなく、人に話すことで気持ちを楽にできることを求める自分もいて、自分がどうしたいのか、どうすべきなのかがまたわからなくなってしまう。動き出しさえすればいいという結論と、それすらできない自分への苛立ちと情けなさと。そんな自分をさらけ出して誰かに聞いてほしいと思う自分もいて、そんな風に甘えている自分がやっぱり駄目だと思う自分もいて。非合理だなぁと思いながら、何もできていない自分を呆然と眺める。

 

いつになればこの感情は晴れるのか。今日も何もできなかった一日が終わる。

生きづらさのトリアージ

助けて、と声を上げるのは難しい。

 

大学生の自殺予防、というテーマの講義を受けた。死生学のオムニバス講義の一部であり、どこまで本気かわからないが、五月病対策なんて意味合いも込めていたらしい。辛いときは無理せずに学内機関を利用してくださいね、なんて言われたが、はいそうですかありがとうございます、ともいかないわけである。

完全にふさぎ込んでしまった時には行動に移すことすら困難である、利用に際して周囲の目が気になる、などの問題点がある、みたいな話だったが、個人的には自分なんかが利用してしまうのが申し訳なく感じるのだ。

 

一度大学のカウンセリングを利用したことがある。かと言ってこれで気が楽になったのかは微妙である。自分の悩みの大半は「将来への不安」なのである。言ってしまえばその程度の悩みである。そういう悩みで相談に来る人も多いよ、なんて言われて、日常さんざんやりつくしてる自己分析の一部を披露したのちに、それらしいアドバイスを伝えられる。

…いや、こういう言い方はよくない。そのカウンセラーが熱心でなかったと言いたいわけではない。こうしたカウンセリングで気が楽になる人も少なくないのだろう。ただでさえ予約で埋まりがちな中、50分×2回、無料で話を聞いてもらっているので文句を言える立場にはない。でも、あー相談してよかった!と晴れやかな気持ちで退室したわけではないのが事実だ。

 

少し話は逸れるが、トリアージをご存じだろうか。災害時などに、緊急度や重症度に応じて傷病者の治療優先度を決めるシステムである。局所的に大量の傷病者が現れると、対応できる人数にもある程度限りがあり、誰に治療を施すのかがある程度選別されてしまうのも致し方ないことにも思われる。

学内カウンセリングも似たような状況だったのだ。対応できるカウンセラーには限りがある(ただでさえ資金面での苦労が絶えない国立大学である)。一方で、それを必要とする学生は多い。できる限り多くの学生に対して機会を確保するためには、少しでも早く”立ち直らせる”ことが必要であり、傷の浅い者に対しては応急処置を施し自力回復を期待することも必要である。「また辛いことがあれば相談に来てね」なんて具合に。

 

おそらく精神病ではない。親と不仲なわけでもない。特別困窮に喘いでいるわけでもない。手ひどく失恋したわけでもない。食事が喉を通らないわけでもなく、一睡もできないなんてわけでもない。絶望を経験して赤や黄色のバンドを巻かれた人が大勢いるであろうところに、緑のバンドを巻かれているかもしれない自分が、将来を考えたときの閉塞感に苦しんでいます、治療してください!と声をあげることはとてもじゃないができない。

自分の感じている苦しさはかすり傷程度のものなのかもしれない。いかに派手にこけてものすごく痛かったとしても、骨折している人を差し置いて専門機関を頼れるわけではないだろう。消毒液を自分で塗るように、この程度の心の苦しさなら自分で何とかしなさい、と誰かに言われてしまいそうな気がする。

自分の抱えている心の痛みはかすり傷程度だと知ったとしても、その程度の痛みは万人が乗り越える者だと知ったとしても、周囲には骨折レベルの痛みを抱える者もいるのだと知ったとしても、痛みは消えないし和らぐこともない。いつかは治る、不治の病ではないなんて言われたとしても、今この痛みが問題なのであり、その点においては別に気が休まるわけではないのだ。

 

 

別にカウンセリングを利用しなくとも、友人に愚痴や悩みを聴いてもらえばいいのではないか、という意見も考えうる。しかし、万人が心の健康状態を保っているとは限らない。むしろこのご時世、だれしも不安や辛さを抱えながらそれでも生きている、と考えるほうが個人的にはしっくりくる。「かすり傷が痛くて辛くて…」なんて話を、骨折相当の精神的苦痛を抱えているかもしれない人を前にどんな顔して語るのだろうか。

それに、話をされた方も困ってしまうだろう。あくまでも端から見ればかすり傷程度なのだ。それを大袈裟に語られてもなんて反応すれば…なんて困惑されるかもしれないし、この程度でへこたれるやつなのか、などと失望や怒りすら買うかもしれない。

 

自分が助けてもらうのは甘えかもしれない。助けて、と叫んだ先にいるのは、もっと助けを必要としている人かもしれない。そんなことをあれこれ考えてしまって、結局助けてほしいと言い出せない。自己本位的に相手に辛さを共有させるのは未熟な行為だと思うから。「癒し」や「気晴らし」など、痛みを紛らすものを見つけ自分で自分を慰めながらだましだまし今日を過ごす。

 

自分で何とかできると考えているから周囲を頼らないのではない。自分にすらどうしていいのかわからないものを、安易に周囲の人に背負わせたくないから頼れないのだ。

 

迷う決断

迷っている。ただひたすらに迷っている。やる/やらないの選択を前に悩む。どの道に進むのがいいのか岐路に立って悩む。今の自分がどこにいるのか、どうすればいいのかわからなくなり、その場にへたり込んでしまいたくなるほど悩む。日頃の鬱憤を晴らすかのように、暴力的なまでにいかに自分が迷っているのかを怒鳴り散らしているのがこのブログだと言っても差し支えない。

 

何かにものすごい速さで運ばれていく僕らに迷っている時間はない。今よりも良い生活、良い自分、良い人生を目指さなければならない、と世間は語るし、広告は謳う。窒息してしまいそうなほど溢れた、「やりたいことをして生きていきましょう」なんて言葉に、もはや吟味なんて一切することなく飛びつく。やりたくないことをやる人生より当然素晴らしいだろう!なんて調子で。結局それが幸せをもたらしてくれるとは限らない。自分が人生をかけてやりたいことって何だ?なんて迷いの始まりかもしれない。

 

幼いうちは「無限の可能性」なんて言葉で迷いが正当化される。君たちは何にでもなれる、一回きりの人生だから悔いのないよう考えなさい。あるいは、年をとれば妥協する権利を得る。もう年だから。若いっていいねぇ、まだなんだってできるじゃん。モラトリアムな大学生は両者の板挟みにあう。若いから何とでもなる、という言葉に猜疑心を抱きながらも苦笑いで頷き、もう年だからという諦めの口実は禁じられながら、近いうちに自分もああして何かを諦めざるを得なくなると自覚させられ、焦りだけが募る。

 

「何かを決断するってことは、何かを捨てるってことや」

教師の何気ない一言で、そんなありふれた事実に愕然とした高1を思い出す。カラオケに行くと決断すれば、同じ時間に家を掃除している自分も、街で偶然出くわした友人と会話を弾ませる自分も、ただ気のすむままにだらだらと家で過ごす自分も、全部捨てられてしまう。たとえどんなにカラオケが盛り上がったとしても、とっ散らかった部屋の片づけに時間を充てるべきだっただろうか、それとも前から観たかった映画に行った方が幸福だったろうか。なんて風に考えていけば、迷うことは終わりを知らない。

 

迷いに歯止めをかけるためには、数えきれない可能性を捨てながら決断した道を、自分自身で認め、愛してやらねばならない。私が選んだこの道は自分らしく生きる上で正しいのだ、と断言してやらなければならない。バイトやサークルに打ち込む者、学問に必死に取り組む者、モラトリアムとしての大学生活を満喫する者、起業しようと一念発起する者。どれだけ自分の選択だけを見つめようとしても、他人の「もっと素晴らしかったかもしれない選択」は嫌でも目に入る。それでも、いかに隣の芝が青く見えても、自分の選択を認めなければこの道でよかったのかという呪縛からは逃れられない。

 

「昔はよい大学・よい企業に行けばよい人生だったけど今は違いますからね」なんてのもありふれた警句だけど、基本的な構造は今でも変わらないのではないだろうか。つまり、やりたいことを決断して迷いのない人生がよい人生。いい年して迷い続けているのは”だめな”生き方。「将来やりたいことで迷っているところです」なんて言った時、相手の表情に張り付いた憐れみと退屈さと優越感を見ると、自分がひどくつまらない存在に見えて、自分の選択を肯定することがひどく困難になる。

 

かといって、かつて多くの人がおそらく無批判に、良い大学へ行くことを第一目標に掲げたように、大して思いれもないことを無条件にやりたいこととして決断して、そこに向かって突き進むのがよいと言えるだろうか。「充実した大学生活」なんてものをただ呑み込んで、その役を演じることで幸せになれるのだろうか。そんな気は一切しないし、それならいっそ、「決断」をでっちあげるよりは「迷い」に正面から向き合い続ける人生の方が面白そうだと思う。

 

決断して真っすぐに進む人生も素晴らしいけれど、本気で迷い続けるのもなかなか魅力的ではないだろうか。これが自分のやりたいことなんだと言い聞かす選択は捨てた自分の道を愛するための、一言目の自己弁護である。

 

 

いつまでも何にもなれないから。

居直るのは思っていたより難しい。どれだけ自分が嫌いでも、それでもどこか期待してしまう。まだまだ俺はこんなもんじゃない、とまではいかなくても、今の自分以上の何かになれるのだと信じ込みたくなる。自己嫌悪の発端はもしかしたらそこにあるのかも。今の自分を否定していないと、これ以上成長できる余地はないんだと認めてしまうことになってしまう。それが怖いから、自分を傷つけて安心感を得ているのかもなぁ、とそんなことを考える。

 

つらい感情とともにようやく息がつける。胸に詰まったもやもやとした感情を、文字に起こして誰かに見てもらえる場所に投げかけて、自分の思いが誰かに届く形に昇華できたのではないかとほんの少しの充足感を得る。でも、徒労感もすごい。自分はこんなにも苦しんでるんだと喧伝しているようで、あるいは誰かに言い訳をしているような気がして、自分は何をしているんだろうな、とまた自嘲する。自分のつらさを吐き出しているだけなのに、それでも誰かからの反応を心待ちにしている自分もいて、他者の承認に飢えている自分がまた嫌いになる。でも、そんなことを思い言葉にしている時点で、「他者に左右されない自分」を理想として掲げ、そうなれる自分の可能性を信じて、他人にすがりたい自分を嫌っているのだろうな、と透けて見える。

 

何かになっている人はきっとそんなこと気にしない。ある人は自分の好みや正しさを疑うことをしないのだろう。自分はこれを好き、という言葉に、本当に?そこまで好きなの?なんて言葉はついてこないのかもしれない。世界で苦しむ子供のために、なんて言える人は、心からそれが自分にできることと信じているか、信じようと努めているのだろう。まあ今の自分にはわからない感覚なので、あくまでも想像にすぎないけれど。そして淡々と努力を重ねる。誰かに見せびらかすでもなく、励ましを求めるわけでもなく。必要なことだから、と静かに闘うのだろう(やや前時代的だろうか?)。

 

今の自分でいいんだ、と自分に言葉をかけることができればそれは幸せの第一歩なのかもしれない。結局のところ向上したいという願望、言ってしまえば一種の欲も尽きないのではないか。きっと高い収入を得るようになればもっとよい暮らしぶりをしている人が目につく。自分に適した職を求めた人も、もっと自分が輝ける環境があるんじゃないかと探し始めるのかも。愛する誰かを見つけた人も、それがずっとは続かないことに名状しがたい不安を抱くのかもしれない。終わりなき欲求にストップをかけられるのが居直りなのかも。

 

でも、それは成長を止めるという、それはそれで恐ろしい副作用を持つのだなぁと感じた。読みたい本を読める生活があるだけで十分だよ、と言えるうちはいいけれど、周りが着々と「よい生活」を送り始める中で、自分が年老いていく中で、同じことが言えているのだろうか。やっぱり若いうちに努力しておけばなぁ、なんて言って死んでいくのは惨めだ。お前は成長しないな、という目で見られて、それでもこれでいい、と居直れるのかと言われれば決心が揺らぐ。

 

自分が本当に求めているのかもわからない目標を掲げて、そこに向けて走り続けるのはそれはそれで当人は幸せなのかもしれない。人脈を広げて、自己投資して、「学生時代に頑張ったこと」を作って、サークルに精を出して。そこに一貫性を求めるでもなく、自分が心から欲する何かを必要とするわけでもなく。他者の欲望するものも自分も欲望しておく。かつて自分がいた地点から進んだことに幸福を感じるという生。結局が意見ばかりが豪華絢爛になっていき、中身が空疎な自分に悩むことになったとしても、周りに見せられる何かすら持っていないよりは、幸せに感じられるかもしれない。

 

まあでもこれも次善の策にすぎないのだろう。現代において「やりたいこと」「パッション」がある人は強いよなぁなんて思う。あなたのやりたいことは、と聞かれて何も答えられない時の屈辱感は何よりも苦い。かといって、自分の本心と異なる「やりたいこと」をでっちあげてもその欺瞞に、他の誰よりも自分が違和感を抱く。やり続けないとパッションも湧いてこない、という人もいるが、「何にでもなれる」とされるこんな時代じゃパッションでもなければそのことをやり続けることはしんどい。他にも自分の可能性が潜んでいるかもしれない道で溢れているから。自分はこれがやりたいという確信か予感がないと結局どこに進むべきなのか磁針が定まらないまま。

 

もやもやとした感情を吐き出すのは少し楽になれるけど、結局居直ることも、次のステップに進むこともできない。ブログやTwitterで弱音ばかり口にしてるのもダメだという見慣れた結論に何度たどり着けば次のステップに進めるのだろう。モノクロームな日常にいい加減別れを告げねば。いつまでも何にもなれないから。

文喫に行ってきました。

自分は本が好きだ、とはなかなか自信をもって言いにくい。自分なんかよりもっともっと本が好きな人はごまんといるだろう。趣味は読書です、というのは自己紹介で鉄板の逃げ方だが、もっと本好きが世にいるなか私なんかがこういうのもおこがましいですが、という長い断り書きをいつも心の中でつけている。

 

でも、「書店好き」ならまだ心置きなく名乗れる気がする。幼い頃、家族でショッピングセンターに行けばいつもまず本屋に入っていた。洋服や食料品にはさほど興味がなかったので、「本屋で待ってる」がそのうちお決まりの台詞になった。なんとなく気になる本を手に取り、ひたすら立ち読みをしていた。ものによっては読み切ってしまい、んーやっぱり買ってまで欲しい本じゃないな、なんて棚に戻したことも数えきれない。迷惑な客である。とりあえず本屋に寄りたくなる、という習慣は今も抜けていない。

 

表紙をこちらに向けて陳列された本、いかにも「面白い!読まなきゃ損!」と言ってくるような帯、ずらっと平積みされた話題の本、どこにどんなジャンルが入っているかを探りながら書棚をめぐるワクワク感、そして、あれもこれも買いたくなる衝動にかられながら、何とか冷静に本を読める時間と財布の残額を計算して本当に買うのか悩む楽しさ。人の2,3倍は本屋に行くだけでテンションが上がっていると思う。

 

町の小さな本屋、というよりは駅やショッピングモールの大きな本屋がいい。棚一面にずらっと並べられたタイトルを眺めたいし、品ぞろえのよさというのはやはり重視したい。古本屋も悪くないが帯がなかったり、これを売りたい!感じられるような陳列はなかったりと、少し物足りない。こんなにも安く買えるなんて!とテンションが上がることはあるけど(BOOKOFFで『自殺論』が108円だったときはこの値段でいいの?と不安にすらなった)。図書館の本は帯がないし、場合によってはカバーすらないので寂しい。学術書も無料で読めるのでありがたく利用させてもらってはいるけど。

 

そんな書店好きがずっと行きたかったのが、六本木にある「文喫」である。テレビで見て、いつか行く!と心に決めていた。この本屋には入場料がある。1500円。まあまあな値段である。しかし、一度入れば営業時間の間店内の本を読み放題、煎茶・コーヒーの飲み放題、wifiや電源も完備、そしてなによりおよそ3万冊の取扱数と、すさまじく快適な環境が用意されている。しかも、あくまで図書館ではなく、本屋である。カバーや帯がついてるし(ここを重視する人がどれくらいいるかはわからないけど)、そしてもちろんどの本も購入可能。

 

この4月から、平日19時以降の来店であれば入場料が1000円に割引されるということで連休前に足を運んだ。想像していたよりはこじんまりとした店内だったが、都会のど真ん中とは思えない静けさが漂う。そして、あまり見たことのないジャンルの本がずらーっと並んでいる。本棚にジャンルごとに並べられていたり、テーマを掲げて机の上に平積みにされていたり、と何とも言えないワクワク感がそそられる。ジャンルごとの陳列という点では京都の大垣書店Suina室町も同じ作りだったが、文喫ではもはや本の検索機すらない。「本と出会うための本屋」というコンセプトにふさわしい、思いがけない一冊に出会うための工夫が凝らされていると思う。

 

その本を立ち読み…ではなく、椅子に座って読むことができる。何冊でも、追加料金もなしに。この喫茶スペースが面白い。ソファも、一人掛けのソファも、カフェのようなテーブルも、丸椅子も、高さや硬さが様々な椅子が並べられている。他のお客さんはなんとなく自分の椅子を決めて座っている中、自分は読む本ごとに座る椅子を変えて楽しんでいた。

 

そして、なんとこの本屋では選書もお願いできる。店員さんに、テーマ、予算、希望冊数、お気に入りの作家さん、などなど、結構丁寧にリクエストを聞いてもらい、3日ほどで担当のスタッフさんに本を選んでもらえる。しかもその本にはその本を選んだ理由を記した栞が挟まれていた。自分の希望に沿って選んでもらえた!と感じられて楽しい。文喫で本を購入することが前提のサービスではあるが本の代金だけで追加料金はかからない。選書のお願い、受取には入場料もかからないので、少し気後れしてしまうくらいいいサービスだと思う。

 

電子書籍Amazonが普及してる時代だけど、だからこそ思いがけない一冊を求めて本屋に入り浸る一日というのは、なかなか乙なものだと思う。

 

 

f:id:ry027:20190430200706p:plain 写真は下記公式サイトより引用


http://bunkitsu.jp/